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東京高等裁判所 昭和45年(う)349号 判決

主文

原判決を破棄する。

被告人を禁錮六月に処する。

原審における訴訟費用(但し、鑑定人新井尚賢に支給した分を除く。)は、被告人の負担とする。

理由

本件各控訴の趣意は、弁護人後藤昌次郎、同萩原健二共同作成名義の控訴趣意書および検事作成名義の控訴趣意書にそれぞれ記載してあるとおりであるから、いずれもこれを引用し、これに対して当裁判所は、つぎのように判断をする。

弁護人の控訴趣意第一点(理由のくいちがいの主張)について。

論旨は、原判決は本件事故当時における被害者の動静につき、犯罪事実の項においては、被告車の「進路前方の横断歩道を左側から右側に渡りかけ、その中央付近で犬を連れたまま立ちどまつていた」と判示しながら、法令の適用の項においては、「衝突時における被害者の動静については、その場に静止して立つていたのか、反対方向からの車を避けようとして急に被告人の進路前方に後退して来たものか、など不明な点もある」と判示しているが、後者の判示につき、「疑わしきは被告人の有利に」の原則に従えば、本件被害者は反対方向からの車を避けようとして急に被告車の進路前方に後退して来たものと推認すべきであるところ、かような事態は被告人としては予期すべくもないもので、本件事故は不可抗力によるものとして被告人は無過失、無罪というべきであるから、被告人を有罪とした原判決には、理由のくいちがいの違法がある旨主張するものである。

よつて審案するに、原判決に所論指摘の各判示の存在することは明らかであるが、当裁判所の解するところによれば、所論のような違法があると断定することはできない。すなわち、原判決が犯罪事実の項において、被害者が「進路前方の横断歩道を左側から右側に渡りかけ、その中央付近で犬を連れたまま立ちどまつていた」と判示している点は、措辞やや簡に失する嫌いがないではないが、被害者の本件事故遭遇直前における状況を判示しているもので、被害者が「立ちどま」る状況に立ち至るまでの経緯については何ら触れるところがないものと解するのを相当とし、一方法令の適用の項において、右経緯につき、「衝突時における被害者の動静については、その場に静止して立つていたのか、反対方向からの車を避けようとして急に被告人の進路前方に後退して来たものか、など不明な点もあること」と判示したものであつて、その趣旨は、衝突時には犯罪事実の項摘示のとおり立ちどまつていたことは間違いないのであるが、その立ちどまるまでには、あるいはより前進していたのをまたその場所へ戻つたのかも知れないという程度の意味と解せられるのであつて、これを要するに所論指摘の原判決の右の二つの判示は、必ずしも時間的に同じでないところの被害者の動静を各判示したものと解せられるから、その間何ら矛盾は認められない。してみれば、原判決には、何ら所論のような理由のくいちがいの違法は存在しないものとみるのが相当である。なお、論旨は、右のように、被告人は無過失、無罪であるというが、前述のように、原判決の法令の適用の項における説示は、単に、被害者が被害直前の、本件道路中央付近で立ちどまつている状態に達するまでの経緯を説示したに止まるものであるのみならず、原判決も不明といつているように、被害者が「急に被告人の進路前方に後退して来た」ことを確認するに足りる証拠もなく、かつまた、被害直前の状況についても、被告人の捜査官調書を含む関係証拠に徴すれば、被害者は立ちどまつていたのであり、被告車の進路にとび込んだ形跡はもとより認めるに由ないのであるから、被告人の、原判示の注意義務を怠り、道路中央付近に立ちどまつていた被害者に自車を衝突させたとする原判示の過失責任は、優にこれを肯認しうるところである。

論旨は理由がない。

同第二点(事実誤認の主張)について。

論旨は、原判決は被告人の過失を認定しているが、被告人は一貫して被害者が対向車に接触して被告車にぶつかつて来たか、あるいは急に被告車の進路前方に後退して来たかして被告車に接触した旨主張しており、右主張は、被告人と最も利害が対立し、従つて被告人に不利な証言をしている原審証人近藤重吾の供述内容からも裏付けられるところで、これによれば、本件事故は同証人の過失によるもので、被告人には何ら過失は存在しなかつたものであるから、被告人を有罪とした原判決には、判決に影響を及ぼすことの明らかな事実の誤認がある旨主張するものである。

よつて審案するに、まず、所論援用の近藤証言その他の関係証拠を仔細に調査、検討してみても、所論のように、被害者がまず対向車に接触してから被告車にぶつかつて来たことの事実は認定するに由ないところであつて、右事実認定を前提とする論旨はとうてい採用のかぎりでないし、また、被害者が急に被告車の進路前方に後退して来た云々の主張については、すでに控訴趣意第一点に対する判断において説明したとおりであるから、この点に関し原判決の事実誤認を主張する論旨もまた採用のかぎりでない。

論旨は理由がない。

検察官の控訴趣意(量刑不当の主張)について。

論旨は、原判決は、本件犯罪事実につき、被告人を禁錮一年に処し、四年間右刑の執行を猶予する旨言い渡したが、右判決の量刑は執行猶予を付した点において、軽きに失し不当であると主張するものである。

よつて、所論にかんがみ、本件記録を調査、検討するに、まず、本件事故発生の現場が横断歩道上であることが重視されなければならない。いうまでもなく、横断歩道は歩行者に認められた唯一の安全な場所であつて、自動車運転者たる者、横断歩道上における歩行者の安全については、いかに配慮、注意しても、すぎることはないというべきである。もつとも、原判決は、被告人に対する量刑を軽からしめる事情として、「本件の横断歩道は運転者にとつて必ずしも見やすい場所に設置されていたものでなく、また、夜間、歩行者が、本件被害者のように、車道の中央線付近に立つていると、運転者としては、自動車の前照灯の光の交錯などのため、雨もようの天候の状況も手伝つて、歩行者の発見にかなり困難を感じるような状態にあつた」旨判示するところがあるが、関係証拠を仔細に検討してみるに、右判示には必ずしも同調し得ない部分の存在することを否定できないのであつて、そもそも本件事故現場は、中央部分約六メートルの敷石舗装の都電軌道敷を含め車道総幅員約一六・七メートルのアスコン舗装された国道一七号線(通称中仙道)に設けられた横断歩道上であつて、見透しは直線で良好、視界を妨げるものもなく、かつ、路面は平坦で、軌道敷部分を除き幅員約四メートルにわたり白色ペイントではしご状模様により横断歩道の標示が描かれ、かつ、横断歩道の標識も設けられており、本件事故発生時の午後一〇時ころの照明のもとにおいて、被告人が進行して来た志村方面から見て、少くとも約二八・七〇メートルの手前で本件横断歩道の標示および歩行者を明識できるのであり、さらに、原判示中、本件事故当時における降雨ないし対向車の前照灯のためもあつて、横断歩行者の発見にかなり困難を感ずる状態にあつたとする部分についても、これを肯認するに躊躇を感ぜしめる証拠資料が存在しないわけではないのである。しかも、被告人は、本件事故現場から余り離れていないタクシー会社に勤務し、事故発生時まで一年位のあいだ毎週二回位の割合で本件現場を往復しており、道路や交通の状況をよく知つていたというのであるから、被告人は本件事故当時においても本件現場に横断歩道が設置されていたことは当然知つていたものと推認するにかたくないところで、もし放心していてこれに気付かなかつたとすれば、そのこと自体非難に値するものといわなければならない。つぎに、被告人の本件過失の内容、程度、被害結果の程度、いずれも重かつ大であることは、原判決も法令の適用の項でとくに指摘している位で、全く明白なところであるとしなければならない。たゞ、本件被害者にも事故の発生につき何らかの落度があつたか否かの点については、原判決は、「本件被害者は目が悪く、左右からの車の流れが続いていたのに、若干判断を誤つて横断を開始し、中央線付近まで行つてから、進むに進めず、退くに退けず、そのあたりでとまどつていたらしい形跡がうかがわれ、みずから危険な状態に踏みこんだのではなかろうかという疑いが残る」旨判示しているのであるが、被告人の本件過失の態様に徴すれば、これをもつて被告人に対する量刑を軽からしめる特段の事由とすることも必ずしも当を得ないものと考える。その他、原判決は、「被害者の遺族と自動車会社との間に示談が成立していること、被告人の現在の心神の状態についても受刑能力の観点から一考せざるをえないこと」などを挙げて、被告人に対する禁錮一年の刑の執行を猶予する事由としているものと解されるのであるが、本件示談の内容、程度やそれが被告人自身の出捐によつて成立したものでないこと等に徴すると、示談が成立しているからといつてとりわけ被告人に有利な情状であるとするには躊躇せざるを得ないものがあり、被告人の受刑能力に言及している部分については、鑑定人新井尚賢作成の昭和四四年九月三〇日付の被告人の精神状態鑑定書を援用、斟酌しているものと解せられるのであるが、上来説明し来つた本件犯罪の重大性も看過することはできず、従つて刑罰の目的ないし効果のうちの一般警戒の面を本件量刑に対する判断に際し度外視することも許されないところであるといわなければならない。

以上説明したところから判断してみると、被告人を禁錮一年に処しながら、四年間右刑の執行を猶予することとした原判決の量刑は、軽きに失したものと認めるのほかはないので、論旨は理由がある。

よつて、検察官の控訴は理由があるから、刑訴法三九七条一項、三八一条により、原判決を破棄したうえ、同法四〇〇条但書の規定に従い、さらに、自ら、つぎのように判決をする。

原判決が認定した事実に法令を適用すると、被告人の原判示所為は、刑法二一一条前段(刑法六条、一〇条により昭和四三年法律第六一号による改正前のもの)、罰金等臨時措置法二条、三条に該当するので、所定刑中禁錮刑を選択し、その刑期範囲内において被告人を主文掲記の刑に処し、原審の訴訟費用は、刑訴法一八一条一項本文に従い、主文掲記のように被告人に負担させることとして、主文のように判決をする。

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